1. 設立から上場までの経緯:自治体に支えられた10年
※本編はインタビュー形式でお届けいたします
――― 2012年1月の設立から10年目の昨年末、ついに東証マザーズ市場への上場を成し遂げました。改めて設立から今日に至る10年を振り返っていただけますか。
眞邉:多くの皆様のお力添えを得て、ここまで成長することができました。設立当初の数年は、毎年いつ倒産してもおかしくない、なんて半ば冗談で言われていた当社が、マザーズ上場を成し遂げたことは感慨深いです。
2011年に発生した東日本大震災は、自分の生き方そのものを変えたと言っても過言ではありません。震災直後に、知り合いから調達した太陽電池で稼働する浄水器を自分で運搬し、東北まで届けましたが、その惨状を目の当たりにし、被災地の復興や日本全体の成長に向けて、自分に何ができるのか?と深く考えさせられました。
(写真:震災直後、被災地へ寄贈した太陽電池で稼働する浄水器)
――― 会社設立に際して、震災復興への貢献ともう一つ、垂水市の尾脇市長との約束があったと聞いています。
眞邉:前職の運用会社日本法人で代表を務めていた際、垂水市とのご縁を頂きました。ただ米国本社の方針転換で、その会社は日本での再生可能エネルギー事業から手を引くこととなってしまいました。私は尾脇市長や市役所の皆さんの思いに応えるべく一念発起し、会社を設立しました。これが現在のリニューアブル・ジャパンです。
――― 紆余曲折の末にたどり着いた垂水市との協業ですね。
眞邉:最初にお話を頂いてから、運転開始まで5年もかかってしまいました。九州電力との協議が暗礁に乗り上げたこともありましたし、実績がないなかで本当に苦労しました。ただ、そんな中でも垂水市からのバックアップは本当に助かりました。市との協業があったからこそ、当時開発実績の少なかった当社事業へ金融機関が融資を決めてくれました。そして、この実績が他の金融機関からの融資の呼び水となり、また金融機関による融資が大手プラントメーカーによる受注を実現させました。
そして、この垂水市との協業実績が一関市やその他の自治体との協業へつながりました。新たにお付き合いすることになった自治体の職員の方が、垂水市へ連絡し、「RJってどんな会社?」と問い合わせたこともあったと聞いています。その際も、垂水市の方は丁寧にご対応いただきました。
――― 現在、当社は垂水市を含めて8つの自治体と立地協定を締結しています。次に、合計100ha近い市有地をご紹介いただいた、気仙沼市との馴れ初めを お聞かせください。
眞邉:創業直後に一関市へ事務所を構え開発を進める中で、県をまたいで隣接する気仙沼市からお話をいただきました。菅原市長とお会いした際、「設立間もないRJに、この規模の開発が可能なのか?」と質問をいただきました。その時、私は「再エネを金融商品として世の中へ提供する上で、規模は大きいほうが望ましい」とお答えしました。その後、この事業も一時暗礁に乗り上げましたが、市長をはじめとした市役所の皆様のご協力をいただき、無事竣工を迎えることができました。竣工式の際、私から「市長への説明が嘘にならなくてよかった」とお伝えし、菅原市長も笑っておられました。
会社設立に際して、自治体や住民の皆様からご理解をいただき、ご支援いただいたからこそ、苦しい時期を乗り越えられました。それを忘れないためにも、コーポレートミッションのひとつとして、「再生可能エネルギーで地域社会を元気にします」を掲げています。再生可能エネルギーの導入は発電所がある地域の成長、発展に寄与するものでなくてはなりませんし、これはFOUREの設立趣旨と大いに共鳴していると思います。
次回は、当社の自治体様とのお取組事例についてご紹介いたします。
「地域の皆様とともに歩んだ10年の軌跡 ②」は
こちら
この記事の著者
リニューアブル・ジャパン株式会社
眞邉 勝仁
代表取締役社長
リーマン・ブラザーズ、バークレイズなどの外資系金融機関を経て、東日本大震災をきっかけに2012 年1月、リニューアブル・ジャパン株式会社を設立、代表取締役社長に就任。
2019年12月、一般社団法人再生可能エネルギー長期安定電源推進協会を設立し、代表理事就任(現任)
代表取締役社長
リーマン・ブラザーズ、バークレイズなどの外資系金融機関を経て、東日本大震災をきっかけに2012 年1月、リニューアブル・ジャパン株式会社を設立、代表取締役社長に就任。
2019年12月、一般社団法人再生可能エネルギー長期安定電源推進協会を設立し、代表理事就任(現任)
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